東京六大学野球とは

明治36年(1903年)に早稲田大学からの挑戦状に慶應義塾が応じ、初めての早慶戦を実施。

明治39年(1906年)から応援団同士の加熱問題を理由に早慶戦が中止。

大正3年(1914年)明治大学は、早慶戦中止中の両校の間をとりもって三大学野球リーグを結成
(早慶戦は後日の六大学連盟成立まで実現せず)。

大正6年(1917年)明治大学との関係が良好だった法政大学が三大学野球リーグに加盟。

大正10年(1921年)早稲田大学野球部(飛田穂洲)の指導を仰いでいた立教大学が四大学野球リーグに加盟。

大正14年(1925年)東京帝国大学が五大学野球リーグに加盟。六大学野球開始に伴い、それまで早慶戦の再開を固辞し続けていた慶應義塾大学側に対して、明治大学が中心となり「再開に応じなければリーグからの排除も辞さない」という条件を提示。やむなくこれに慶應義塾大学が応じて、早慶戦も19年振りに復活、名実共に充実した六大学リーグ戦が開始されました。

大正15年(1926年)には明治神宮野球場が完成、また秋季リーグ戦より東宮杯(摂政杯)がご下賜されました。
その後昭和6年(1931年)に同球場の拡張工事を行い5万5千人収容の大球場が完成しました。

昭和18年(1943年)第二次世界大戦の影響により文部省から試合禁止を命ぜられ、東京六大学野球連盟は解散することになりました。しかし終戦直後の昭和20年(1945年)10月28日に六大学OB戦、11月18日に明治神宮野球場で全早慶戦を挙行して、野球復興の先鞭をつけ翌21年(1946年)5月19日から1回戦総当りながら六大学リーグ戦を復活しました。

東京六大学野球連盟公式HPより抜粋
今までのリーグ戦優勝校、順位一覧はこちら

若き血 紺碧の空 紫紺の歌   慶応、早稲田、明治の応援歌が聴かれます!

明治神宮野球場


東京六大学野球 はじめて物語 (朝日新聞より抜粋)

◆「天皇杯」最長の歴史

1954年の東京六大学野球秋季リーグで優勝し、天皇杯を受け取る早稲田大学の石井連蔵主将=神宮球場

 


1957年秋の東京六大学野球リーグで優勝した立教大学ナイン。天皇杯でビールを回し飲みする本屋敷錦吾主将ら。
右は杉浦忠投手、左上は長嶋茂雄三塁手

◆草創期の熱さ刻む
その銀色の杯はふだん、人目に触れることがあまりない。大学や野球部の金庫などに大切に保管されている。
東京六大学野球リーグの優勝校に授与される「天皇杯」。サッカーや国体などで知られる天皇杯のうち、実は東京六大学野球の天皇杯が一番古い歴史を持つとされる。

起源は1926(大正15)年までさかのぼる。前年秋、東京六大学野球は早稲田、慶応、明治、法政、立教に、東京帝国大(現東京大)が加わってスタート。翌26年には専用球場となる明治神宮野球場が完成し、10月23日に奉納式が挙行された。
その記念試合を、当時の皇太子、のちに昭和天皇になる摂政宮が観戦。野球を奨励しようと「摂政杯」をリーグ側に贈ると伝えたという。
当時、東京六大学は、野球界をリードする存在だった。中等野球(高校野球)の大会は約10年前に始まっていたが、プロ野球の起源となる大日本東京野球倶楽部(現巨人)の設立は34(昭和9)年と、まだ先だった。


◆応援演奏、球場に新風

明治大の吹奏楽部の創設メンバー16人。村山啓紀さん(前列右端)はサックス、遠藤孝行さん(後列右端)は指揮棒を持っている

◆チアリーダー鮮烈
学ラン姿の応援団員、ブラスバンド、チアリーダー。 日本の野球場で定番の応援のスタイルは、東京六大学野球から広まった。
戦時中の中断を経て1946年に復活した東京六大学野球。士気を高めようと、各校は戦前からあった応援団の再建や新設に乗り出した。

ブラスバンドが最初にできたのは49年。明治大が応援団内に吹奏楽部をつくった。
「誰でもいいから学生を連れて来い、ってね」。当時の創設メンバーでサックスの村山啓紀さん(79)は振り返る。結果、集まったのは楽器を持ったことのない者ばかり。「音が出たり出なかったり、みっともなくて」。警視庁の音楽隊の指導を受けながら、授業そっちのけで猛練習を開始。49年春、部員16人が神宮球場の初舞台を踏んだ。

50年に慶応大と法政大、51年に早稲田大と立教大、52年に東京大が吹奏楽部を創設すると、明大は他校に演奏を教えに行った。指揮者の遠藤孝行さん(79)は「まるで野武士集団の演奏。全然スマートじゃない。でも、どんどん成長するから楽しかったな」。
試合の好機などで演奏する応援マーチ。そのハシリは、早大が65年秋の早慶戦から始めた「コンバットマーチ」とされる。ブラバンの演奏に観客の手拍子や掛け声を組み合わせた応援は、高校野球やプロ野球にも広がった。

チアリーダーの登場は60年秋の早慶6連戦。慶大側スタンドの応援台に、白地のセーターにミニスカート姿の女性がバトンを持って現れた。静まり返る神宮球場。応援歌「若き血」の演奏にあわせて女性がバトンを回して踊り始めると、慶大応援席はわき、早大側はぼうぜんと見つめていたという。
実は、慶応女子高の生徒だった。慶大の応援団幹部が早大を驚かせようと、女子高にバトンの上手な生徒がいるのを知って本人を説得。生徒の家族からも同意を得て極秘に練習させていた。 それから50年。チアリーダーの応援はバトン演技にとどまらない。



◆連盟が要望、聖地完成。 神宮球場と蜜月続く
1929年春、東京六大学野球リーグ戦の入場式が神宮球場で初めて行われた。後方の白い建物は絵画館。当初は貴賓席から絵画館全体が見通せるよう、外野席が低くなっている。

大学野球の聖地・神宮球場。誕生は、大正が幕を閉じる1926年10月だ。 その2年前、旧青山練兵場の跡地に造成された明治神宮外苑に陸上競技場(現在の国立競技場)ができ、国内のスポーツ熱が盛り上がり始めていた。25年に東京六大学野球連盟が結成。長らく中止されていた早慶戦も復活した。
「外苑内に野球場もつくってほしい」。六大学関係者は内務省を訪ね、繰り返し要望した。甲子園球場より2年遅れて、首都圏初の本格的な野球場が建設された。銀行員の初任給が約60円の時代に、総工費は53万円。うち5万円は六大学連盟が拠出した。

六大学野球のリーグ戦が神宮球場で初めて行われたのは26年秋の明治大―法政大戦。計2万9千の客席は満員に。29年春の早慶戦では入場券を求めるファンが前夜から球場に押しかけた。日本初のスポーツ観戦の「徹夜組」だ。31年に拡張され、5万8千人収容の大球場になった。 初のプロ野球の試合は、終戦の年の11月。当時は進駐軍に接収されており、「アマチュアとプロを区別しない米国的考え方」(明治神宮外苑)だからできたともされる。

接収解除後の59年、明治神宮はプロ野球の試合で増収を図るため、ナイター設備の設置を発表する。ところが、六大学連盟が「学生野球の優先に問題がある」と反対し、白紙に。曲折を経て照明は62年にできたが、その際、明治神宮は声明を発表した。 「神宮球場と東京六大学野球連盟との特殊な関係は将来永く尊重せられ、シーズンの優先確保は今さら申すまでもありません」 以来、蜜月の時代は続く。今、プロ野球に大学野球、高校野球など試合数は年間400以上。昼に学生野球、夜にプロ野球という日も多い。

神宮球場完成の2年前、大正13年8月に竣工した甲子園球場

阪神電車甲子園大運動場と命名され、
第10回全国中等学校野球大会が開催された。


◆戦後の球音、接収地で

リーグ戦は1946年春から再開され、同年秋には神宮球場で久々に早慶戦が開催され、第1戦には5万人の観衆を集めた=1946年11月2日

◆GHQ相手に返還交渉
オール早稲田の先発、若原正蔵投手は軍靴でマウンドに上がった。 1945年11月18日に開催された戦後初のオール早慶戦。場所は神宮球場だが、進駐軍に接収された当時の名称は「ステート・サイド・パーク」だった。両チームとも練習不足でミスも目立った。だが、観衆は大喜びで、また野球ができる平和をかみしめた。 「試合が終わっても4万5千人の観客がなかなか帰ろうとしない。薄暗い球場にたばこの火が、まるでホタルのようにともっていた」。早大のマネジャーだった相田暢一さん(88)は後に振り返った。

オール早慶戦に先立つ10月28日には東京六大学OBによる紅白戦も開かれた。プロ野球が復活する1カ月前。戦争による中断を乗り越え、野球復興の先鞭(せんべん)をつけたのは、まさに東京六大学野球だった。 翌46年3月には、リーグ戦も総当たり1回戦制で再開された。ただし、神宮球場は使用許可が下りず、後楽園、上井草の両球場を併用した。秋季リーグも全試合を行うことはできなかった。

六大学の球場を取り戻そう――。連合国軍総司令部(GHQ)に必死に掛け合った人物の一人に、慶応大の水野次郎マネジャー(86)がいる。46年秋のシーズン後から、文部省(当時)に何度も足を運び、神宮球場の返還をGHQに働きかけるよう求めた。厄介払いされると、今度は通訳を交えてGHQに掛け合った。だが、「接収した施設は6年間返還しないことで協定されている」と拒否された。 結局、接収解除は52年春まで待たなければならなかった。それでも50、51年秋は米軍の野球シーズンオフと重なったこともあり、全試合を神宮で開催することができた。 一連の交渉でGHQ側は拒否の理由の一つとして「軍国主義、官僚主義の温床となっている東大を含む団体に利用させるのは好ましくない」という主張をしてきたという。


◆背番号登場は長嶋後

1957年11月4日、慶大戦で林薫投手から大学通算8本目を放ち、当時の本塁打記録を塗り替えた長嶋茂雄選手。そのユニホームには背番号がなかった

◆色・形違えど主将は10
天皇杯、応援スタイルなど、何かにつけてスポーツ界の先駆けとなった東京六大学野球。だが、意外にもユニホームにはじめて背番号がつくのは遅かった。
学生野球で最初に採用したのは高校野球で、1952(昭和27)年夏の全国高校選手権から。東都リーグも56年春からつけたが、六大学は採用を見送り続けた。当時の朝日新聞に、関係者の意見が掲載されている。「番号を背中につけるのは選手を商品化する恐れがある。また、その必要性はない」。野球界で最古の歴史を持つリーグとしての誇りをうかがわせる。 57年秋、立教大の長嶋茂雄選手(74)が当時のリーグ最多記録である通算8号本塁打を放ち、神宮の杜(もり)は沸いた。その背中には、番号がついていなかった。

しかし、ファンが選手を探す際などに不便だという声が強くなり、ついに東京六大学も背番号の採用に踏み切る。長嶋選手が神宮を巣立って2年後、59年春のことだった。 早稲田大でスラッガーとして鳴らし、プロ野球国鉄(現ヤクルト)、中日でも活躍した徳武定祐さん(71)は当時3年生。「(同じ三塁手の)長嶋さんにあこがれて、3番を下さいと言ったんだよ」。同級生の正捕手だった野村徹さん(73)=前早大監督=は「6」、エースの安藤元博投手は「11」をつけた。 早大は現在も右のエースが「11」、正捕手は「6」を背負う。一けた番号は内野手、10番台は投手、20番台は外野手がつけるという慣習が受け継がれている。

明治大はさらに特徴があって、高校野球のように守備位置の順番で背番号をつける。ただし、エースは「11」。 六大学では背番号の色や形などは各校に任されたが、採用当初から「主将は10番だった」と徳武さんは記憶する。4年で50代目の主将になった徳武さんは「10」を背負い、伝説となった60年秋の「早慶6連戦」を戦った。 そして今春、斎藤佑樹投手(21)は「10」をつけてマウンドに上がる。早大100代目の主将だ。「当時からの伝統がいまも変わらないのはうれしい。(同じ早稲田実出身の)斎藤がつけていることに何か因果のようなものを感じるよね」。徳武さんはしみじみと言った。


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